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東京地方裁判所 平成6年(ワ)20185号 判決 1997年1月31日

原告

苅田勝美

原告

長井敦

原告

川口正中

右三名訴訟代理人弁護士

小林和彦

被告

株式会社本位田建築事務所

右代表者代表取締役

本位田望

右訴訟代理人弁護士

田邊勲

主文

一  被告は、原告苅田勝美に対し六二二万九六八〇円、同長井敦に対し四九五万九〇三〇円及び右各金員に対するいずれも平成六年四月二九日から各支払済みに至るまで年六分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  被告は、原告川口正中に対し一〇四七万七三九〇円及びこれに対する平成六年一月一日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員を支払え。

三  原告苅田勝美及び同長井敦のその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は被告の負担とする。

五  この判決は、第一、二項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

一  原告苅田勝美及び原告長井敦について

被告は、原告苅田勝美に対し七二二万四二五〇円及び原告長井敦に対し五九二万三三一二円並びにこれらに対する平成六年四月二九日から各支払済みに至るまでそれぞれ年六分の割合による金員を支払え。

二  原告川口正中について

1  主位的請求

被告は、原告川口正中に対し、一〇四七万七三九〇円及びこれに対する平成六年一月一日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員を支払え。

2  予備的請求

被告は、原告川口正中に対し、一〇四七万七三九〇円及びこれに対する平成二年一月一日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、被告に対し、原告苅田勝美及び同長井敦が、雇用契約に基づく退職金の支払い及び旅行積立金の返還並びにそれらに対する遅延損害金の支払いを、同川口正中が、雇用契約に基づく退職金及びそれに対する遅延損害金の支払いを、それぞれ請求した事案である。各請求内容は、原告苅田勝美が退職金七一六万四二五〇円及び旅行積立金六万円並びにこれらに対する平成六年四月二九日以降支払済みまで年六分の割合による遅延損害金、原告長井敦が退職金五八六万三三一二円及び旅行積立金六万円並びにこれらに対する平成六年四月二九日以降支払済みまで年六分の割合による遅延損害金、原告川口正中が退職金一〇四七万七三九〇円及びこれに対する平成六年一月一日(主位的請求)、あるいは平成二年一月一日(予備的請求)以降支払済みに至るまで年六分の割合による遅延損害金である。

以下においては、原告三名を指す場合「原告ら」と表示し、また原告各人を示す場合、姓のみを用いて表示することとする。なお、被告の商号は、従来「株式会社杉坂建築事務所」であったが、本件口頭弁論終結後に「株式会社本位田建築事務所」と変更された。

一  争いのない事実等

以下の各事実は、括弧書きで証拠を掲げたものについてはその証拠により認定し、その余については当事者間に争いがない。

1  被告は、土木建築設計施工等を目的とする会社である。

2  原告苅田は昭和五〇年四月一日、同長井は昭和五二年四月一日、それぞれ被告と雇用契約を締結し、同日被告に入社した。

3  原告川口は、昭和四七年一〇月一日、被告と雇用契約を締結し、同日被告に入社した(川口正中原告本人尋問の結果)。

4  原告川口は、平成元年一一月一日、被告の取締役に就任した。

5  被告は、平成五年四月三〇日、原告川口に退職を勧告し、同原告は、これを了承して同日被告を退職した。

6  被告は、平成六年一月一日付けで、その営業の大部分を株式会社平塚工業(以下「平塚工業」という。)に営業譲渡した(被告と平塚工業間において締結された右の営業譲渡契約を、以下「本件営業譲渡契約」という。)。

7  原告苅田及び同長井は、平成六年一月一日から平塚工業の従業員として勤務したが、同年三月三一日、いずれも一身上の都合を理由に退職した。

8  平塚工業は、平成六年四月、原告苅田及び同長井に対し、預金返戻としてそれぞれ八万七〇〇〇円ずつ支払った。

9  被告の就業規則(以下「就業規則」という。)に基づく被告の従業員給与規定(以下「給与規定」という。)には、以下のとおりの定めがある(<証拠略>)。

第五条(給与の種類及び体系)

この規定で給与とは、給与、賞与、退職金をいい、その体系は次のとおりとする。

(1) 給与

<省略>

(2) その他の給与

<1> 昇給

<2> 賞与

<3> 退職金

第一一条(基本給)

基本給は所定の労働時間に就業したときの報酬であって、月額でこれを定め、その構成の要素を次のとおりとする。

(1) 職能給 従業員の技能、職務、職能、勤務成績等を総合的に評価して各人毎にこれを定める。(以下省略)

(2) 年齢給 毎年四月一日現在の満年令を基礎として支給する。

(3) 勤続給 毎年四月一日現在において満三年以上勤務した者に対し三〇〇〇円、満五年以上勤務した者に対し一万円を支給する。

第二八条(退職金の支給範囲)

従業員が退職した場合においては、この章の規定により退職金を支給する。(以下省略)

第二九条(退職金支給者)

退職金は勤続満一年以上の従業員が次の各項の一つに該当する場合に退職した者に支給する。

(1) 役員に就任したとき。

(4) 会社の都合によって解雇したとき。

(6) 自己の都合によるとき。((2)(3)(5)は省略)

第三〇条(退職金額)

退職金額は退職当時の基本給(日給者にあっては基本給の二五倍)に別表で定める勤続期間に応じた支給率を乗じて得た金額とする。(右「別表」<略>は、本判決書末尾に添附する。)

第三一条(支給率A項適用者)

第二九条(1)~(5)に該当する者は別表支給率表A項を適用する。

第三二条(支給率B項適用者)

第二九条(6)に該当する者は別表支給率表B項を適用する。

第三四条(期間計算)

(1) 勤続期間は、入社から退社までの期間とする。但し、一年未満の端数は月割計算し一ヶ月未満の日数は一五捨一六入する。

第三五条(退職金の支払日)

従業員が退職、解雇または死亡した場合の退職金は辞令発令日から三〇日以内にこれを支払う。

二  争点

1  (原告苅田及び同長井関係)原告苅田及び同長井が、平成五年一二月三一日、被告を退職した事実の有無。退職の事実があるとした場合、右各原告の退職理由

2  (原告川口関係)原告川口の、被告従業員としての退職年月日及び退職理由

3  (原告ら関係)退職金額算定基準となる勤続年数の起算日

4  (原告ら関係)給与規定三〇条にいう「基本給」の内容(以下、同条にいう基本給を「基本給」と表示する。)

三  当事者の主張

1  争点1(原告苅田及び同長井が、平成五年一二月三一日、被告を退職した事実の有無。退職の事実があるとした場合、右各原告の退職理由)について

(原告苅田及び同長井)

被告代表者である本位田望(以下「社長」という。)は、平成五年一二月ころ、原告苅田及び同長井を含む被告全社員に対し「平成六年一月一日付けをもって被告から平塚工業へ移る。」との旨を通告した。右通告は解雇の意思表示と理解できるので、原告苅田及び同長井は、右解雇により、平成五年一二月三一日付けで被告を退職したものである。

(被告)

被告と原告苅田及び同長井との雇用関係は、平成五年一二月一日に被告、平塚工業間で締結された本件営業譲渡契約及び右原告両名の右雇用契約関係の平塚工業への移転に対する異議なき承諾により、平成六年一月一日、被告から平塚工業に当然に移転したものであって、右各原告の平成五年一二月三一日付け退職の事実はない。

2  争点2(原告川口の、被告従業員としての退職年月日及び退職理由)について

(原告川口)

原告川口の退職年月日は平成五年四月三〇日であり、退職理由は、被告による整理解雇である。

なお、原告川口は、平成元年一一月一日に取締役に就任したが、取締役就任によって、従業員としての地位を失ったものではない。

(被告)

原告川口は、平成元年一一月一日、取締役に就任したので、同日以降、従業員としての地位を失った。したがって、従業員としての退職年月日は、取締役就任の前日である平成元年一〇月三一日である。

3  争点3(退職金額算定基準となる原告らの勤続年数の起算日)について

(原告ら)

いずれも入社した日から起算され、原告苅田については昭和五〇年四月一日、同長井については昭和五二年四月一日、同川口については昭和四七年一〇月一日である。

なお、原告らは、いずれも退職金算定の起算日を昭和六〇年七月二五日とすることを被告と同意したことはなく、被告から同日付けで解雇された事実もない。また、原告川口は、平成五年四月三〇日、被告との間で、昭和六〇年七月二五日以降の期間を勤続年数とする旨の合意をしたことはない。

(被告)

起算日は、以下の理由により、いずれも昭和六〇年七月二五日となる。

被告は、昭和六〇年七月二五日、原告らを含む全従業員を一旦解雇し、同日、原告らを含む従業員との間で、再度雇用契約を締結した。この際、被告は、原告らと、退職金額算定のための勤続年数の起算日を昭和六〇年七月二五日とすることを合意した。また、被告副社長平塚五十一(以下「副社長」という。)は、平成五年四月三〇日、原告川口を含む七名の従業員や取締役に対し、退職金については、昭和六〇年七月二五日以降の期間を勤続年数とすることを了承してもらいたい旨を申し入れ、原告川口を含めた全員がこれを承諾した。

4  争点4(給与規定三〇条にいう「基本給」の内容)について

(原告ら)

「基本給」は、給与規定五条によれば、職能給、年令給及び勤続給により構成される。したがって、原告苅田及び同長井については給与明細書の基本給欄及び職能給欄に記載された金額の合計額を「基本給」と理解すべきであり、原告苅田については三六万四〇〇〇円、同長井については三三万九〇〇〇円となる。

原告川口については、原告苅田及び同長井の退職金金(ママ)額の算定基準となる基本給がいずれも支給総額の七〇パーセントを下らないことからして、同様に原告川口の退職時の報酬総額である七三万二〇〇〇円の七〇パーセント相当額である五一万二四〇〇円がその「基本給」となると理解すべきである。

また仮に、原告川口が平成元年一一月一日の取締役就任により従業員の地位を喪失したとされた場合、原告川口の「基本給」は、五〇万五〇〇〇円と理解すべきである。

(被告)

原告苅田及び同長井については、給与明細書の基本給欄に記載された金額が「基本給」となると理解すべきであり、そうすると原告苅田は一五万八〇〇〇円、原告長井は一四万二〇〇〇円である。

5  退職金請求に関する主張の総括

(一) 原告苅田関係

(原告苅田)

原告苅田は、勤続年数が一八年九か月(但し、昭和五〇年四月一日入社、平成五年一二月三一日退職)で支給率が二二・九三七五(但し、別表Aが適用され、計算式は二二・〇+(二三・二五-二二・〇)×一二分の九となる。)となり、基本給三六万四〇〇〇円であるので、退職金額は、次の計算式により八三四万九二五〇円となる。

(計算式) 三六万四〇〇〇円×二二・九三七五=八三四万九二五〇円

原告苅田は、被告に対し、右金員のうち七一六万四二五〇円(但し、平成六年四月二八日に支払いを受けた一一八万五〇〇〇円を控除した残金。)及びこれに対する履行期の後である平成六年四月二九日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員の支払いを求める権利がある。

(被告)

原告苅田の、被告及び平塚工業における雇用関係を通じて算出した退職金額は、勤続年数が八年八か月(但し、昭和六〇年七月二五日から起算、平成六年三月三一日退職)で支給率が七・五(但し、自己都合退職なので別表Bが適用され、勤続年数が八年(支給率七)以上九年(支給率八)未満であるから、支給率は七・五となる。)となり、基本給一五万八〇〇〇円であるので、次の計算式により、一一八万五〇〇〇円となる。

(計算式) 一五万八〇〇〇円×七・五=一一八万五〇〇〇円

平塚工業は、平成六年四月二八日、原告苅田に対し、一一八万五〇〇〇円を支払ったので、同原告の退職金請求権は弁済により消滅した。

(二) 原告長井関係

(原告長井)

原告長井は、勤続年数が一六年九か月(但し、昭和五二年四月一日入社、平成五年一二月三一日退職)で支給率が二〇・四三七五(但し、別表Aが適用され、計算式は一九・五+(二〇・七五-一九・五)×一二分の九となる。)となり、基本給三三万九〇〇〇円であるので、退職金額は、次の計算式により六九二万八三一二円となる。

(計算式) 三三万九〇〇〇円×二〇・四三七五=六九二万八三一二円

原告長井は、被告に対し、右金員のうち五八六万三三一二円(但し、平成六年四月二八日に支払いを受けた一〇六万五〇〇〇円を控除した残金。)及びこれに対する履行期の後である平成六年四月二九日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員の支払いを求める権利がある。

(被告)

原告長井の、被告及び平塚工業における雇用関係を通じて算出した退職金額は、勤続年数が八年八か月(但し、昭和六〇年七月二五日から起算、平成六年三月三一日退職)、支給率が七・五(但し、自己都合退職なので別表Bが適用され、勤続年数が八年(支給率七)以上九年(支給率八)未満であるから、支給率は七・五となる。)となり、基本給一四万二〇〇〇円であるので、退職金は、次の計算式により、一〇六万五〇〇〇円となる。

(計算式) 一四万二〇〇〇円×七・五=一〇六万五〇〇〇円

平塚工業は、平成六年四月二八日、原告長井に対し、一〇六万五〇〇〇円を支払ったので、同原告の退職金請求権は弁済により消滅した。

(三) 原告川口関係

(原告川口)

(1) (主位的請求)原告川口は、勤続年数が二〇年七か月(但し、昭和四七年一〇月一日入社、平成五年四月三〇日退職)で支給率が二五・二二九一(但し、別表Aが適用され、計算式は二四・五+(二五・七五-二四・五)×一二分の七となる。)となり、基本給五一万二四〇〇円であるので、退職金額は、次の計算式により一二九二万七三九〇円となる。

(計算式) 五一万二四〇〇円×二五・二二九一=一二九二万七三九〇円

原告川口は、被告に対し、右の金員のうち、一〇四七万七三九〇円(但し、原告川口は、平成五年七月及び同年一二月に受領した合計二四五万円を退職金の趣旨と理解するので、主位的請求においては、一二九二万七三九〇円から、右二四五万円を控除する。)及びこれに対する履行期の後である平成六年一月一日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員の支払いを求める権利がある。

(2) (予備的請求)仮に、原告川口が、平成元年一一月一日、被告の取締役に就任することにより従業員の地位を喪失したとすると、原告川口は、勤続年数が一七年一か月(昭和四七年一〇月一日入社、平成元年一一月一日取締役就任)で支給率が二〇・八五四一(但し、別表Aが適用され、計算式は二〇・七五+(二二・〇-二〇・七五)×一二分の一となる。)となり、基本給五〇万五〇〇〇円であるので、退職金額は、次の計算式により一〇五三万一三二〇円となる。

(計算式) 五〇万五〇〇〇円×二〇・八五四一=一〇五三万一三二〇円

原告川口は、被告に対し、右の金員のうち、一〇四七万七三九〇円(但し、この場合、原告川口が平成五年七月及び同年一二月に受領した合計二四五万円は、取締役としての退職慰労金ということになり、請求と無関係となるので、請求額から控除しない。)及びこれに対する履行期の後である平成二年一月一日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員の支払いを求める権利がある。

(被告)

原告川口の退職金請求権が平成元年一一月一日に発生したとしても、既に消滅時効期間の五年を経過しており、被告は、平成七年四月二五日に行われた本件第五回口頭弁論期日において右消滅時効を援用したから、同原告の退職金請求権は存在しない。

被告が、原告川口に対し、取締役としての退職慰労金の趣旨で平成五年七月及び同年一二月に支払った合計二四五万円は、仮に同原告に従業員としての退職金請求権が存在した場合には、それに対する弁済として支払ったものと理解すべきである。そして、従業員の例に準じた場合における原告川口の退職金額は二四五万円(但し、原告川口の平成五年三月の報酬額七三万二〇〇〇円の約四〇パーセントにあたる二九万円を基本給とみなし、勤続年数は昭和六〇年七月二五日から平成五年四月三〇日までの七年九か月で、別表A項により支給率を八とし、右二九万円に八を乗じた金額である二三二万円に一二万円を加算した金額である。)となるから、右退職金請求権は弁済により消滅した。

第三当裁判所の判断

一  争点1(原告苅田及び同長井が、平成五年一二月三一日、被告を退職した事実の有無及び右各原告の退職理由)について

1  (証拠・人証略)、原告ら及び被告代表者各本人尋問の結果、当事者間に争いのない事実並びに弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実関係が認められる。

被告は、既に昭和五五年ころから経営が行き詰まっていたが、昭和六〇年六月ころには完全な倒産状態となり、それ以降、被告の大口債権者であった平塚工業から支援を受けるようになった。そして被告は、多額の累積債務を有していて金融機関からの借り入れができないため、平塚工業に借り入れをしてもらい、同社からその金を借り受けて運転資金としたり、営業活動については、社会的知名力を有する被告が仕事を受注し、受注した仕事の殆どを平塚工業が再受注して施工するといった方法がとられるようになった。このように被告と平塚工業とは共同し、いわば二重構造的な形で業務を遂行するようになったが、右両社は、会社経営を効率化させるため、この二重構造的で複雑な営業体制を解消する必要があると考えるに至った。そこで、被告及び平塚工業は、平成五年一二月一日、被告の営業のうち、営業部門を除く工事部門関連の営業を平成六年一月一日付けで平塚工業に譲渡するという内容の本件営業譲渡契約を締結した。本件営業譲渡契約締結に当たり作成された営業譲渡契約書(<証拠略>)には、被告従業員の雇用関係の引継ぎに関し、その第六条に、「譲渡日現在における甲(被告)の従業員を乙(平塚工業)は引き継ぐものとする。但し、勤務年数については、昭和六〇年七月二五日以降の期間を引き継ぐものとする。」との条項が設けられていた。被告の従業員は、本件営業譲渡契約の締結には関与しなかった。社長及び副社長は、被告従業員を集め、本件営業譲渡契約が締結された事実につき平成五年一二月中に事後的に説明を行ったが、その際、雇用関係について被告従業員に対してした説明の主な内容は、平成六年一月一日からは平塚工業の社員となるということ及び平塚工業は、基本的に被告の労働条件を引き継ぐということであった。なお、使用者が、被告から平塚工業にかわるに当たり、従業員が社長、副社長その他の者から、「解雇する。」との趣旨のことを言われたことはなかった。原告苅田及び同長井は、右の説明が行われた際、被告に対し、特に明白な形での異議は申し出ておらず、平成六年一月一日から平塚工業の従業員としての勤務を開始したが、三か月後の同年三月三一日、いずれも自己都合により同社を退職した。

2  企業間において営業譲渡契約がなされるに当たり、譲渡する側の会社の従業員の雇用契約関係を、譲渡される側の会社がそのままあるいは範囲を限定して承継するためには、譲渡・譲受両会社におけるその旨の合意の成立に加え、従業員による同意ないし承諾を要すると解される。

そこで、本件において原告苅田及び同長井による右の同意あるいは承諾が存したか否かにつき検討する。右に認定した事実関係によれば、社長及び副社長は本件営業譲渡契約締結の事実につき、従業員を集団的に集めた状態で、事後的に、包括的・抽象的な説明を行ったのみであり、しかも、平塚工業が被告から承継した従業員の勤続年数は大きく制限されていたにもかかわらず、それについての明確な説明がなされた事実も窺えないことからすれば、単に原告苅田及び同長井が右説明の際に明確な異議を申し出ず、平成六年一月一日から平塚工業の従業員としての勤務を開始したことをもって、右にいう同意ないし承諾がなされたとは認められず、他にこれを認めるに足りる証拠もない。そうすると、被告と原告苅田及び同長井の雇用契約関係は、平塚工業に当然には承継されず、使用者が被告から平塚工業に切替わる平成五年一二月三一日の時点でいずれも一旦終了したものであり、右両原告は、同日をもって被告を退職したと理解できる。

3  また、右事実認定の下では、原告苅田及び同長井の被告退職に当たり、被告による解雇の意思表示が存したとは認められず、他にこれを認めるに足りる証拠もないので、右各原告の退職理由は、被告の退職の申込みを右各原告が承諾したことによるものであると理解するのが相当であり、合意退職と認められる。

二  争点2(原告川口の、被告従業員としての退職年月日及び退職理由)について

1  まず、原告川口が平成元年一一月一日に取締役に就任したことにより、従業員としての地位を喪失したか否かについて検討する。

(一) 給与規定二九条は、「退職金は勤続満一年以上の従業員が次の各項の一つに該当する場合に退職した者に支給する。」(<証拠略>)とし、その一項において「役員に就任したとき」と定めていることからすれば、同条は、役員就任をもって従業員の地位を喪失するとの趣旨であると一見思われなくもない。しかしながら、給与規定の根拠規程である就業規則が、従業員の退職事由について定めた一九条において、役員就任を退職事由として掲げていないことからすれば、就業規則及びこれに基づく給与規定が、役員就任をもって、従業員性の絶対的喪失事由とする趣旨であったとは解されない。そうすると、右給与規定二九条は、従業員であった者が役員に就任した場合に、以後、従業員兼務の役員とはならずに、従業員性の無い純粋な役員となる場合があることを念頭に置き、そのような場合には、役員を退任しなくても、従業員ではなくなった役員就任の時点において、退職金の支給を受けられるということを注意的に規定したものと理解するのが相当である。

以上からすれば、取締役に就任したことの一事により、原告川口の従業員性が失われることにはならない。

(二) そこで、原告川口が、取締役に就任した平成元年一一月一日以降においても、従業員としての地位を有していたか否かについて検討する。

原告川口正中及び被告代表者各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、原告川口の被告における立場は、取締役就任前は営業部長であり、取締役就任後は取締役営業部長であったが、担当していた業務内容は、取締役就任の前後を通じ、家を建てる予定のある客と接触して同人に設計を勧め、被告と契約を締結させることであって、なんら変化を生じていないこと、原告川口は、取締役就任後においても、被告の経営の核心部分に参加したことがなく、被告の指示に従って労務を提供していたこと、原告川口は、取締役就任に当たり、従業員としての退職金の支給を受けておらず、その時点で従業員としての精算がなされていなかったことがそれぞれ認められる。

以上からすれば、原告川口は取締役就任後においても、被告との使用従属関係が存していたことが認められ、平成五年四月二九日までの間に、右使用従属関係が喪失したことを認めるに足りる証拠はない(なお、原告川口は、その本人尋問において、取締役に就任すると従業員ではなくなると常識的には考えていた旨の供述をしているが、前記認定の事情の下においては、原告川口がそのような認識を有していたことのみをもって、その従業員性を否定する理由とはならないと解される。)。

(三) 以上からすれば、原告川口の被告従業員としての退職年月日は、取締役退任と同時期であって、平成五年四月三〇日であると認められる。

2  次に、原告川口の退職理由について検討する。

被告が平成五年四月三〇日、原告川口に対し退職勧告をなし、同原告がこれを了承して被告を退職したことは当事者間に争いがないのであるから、原告川口は、被告による退職の申込みを承諾したものであって、その退職理由は合意退職であると認められる。

三  争点3(退職金額の算定基準となる原告らの勤続年数の起算日)について

1  給与規定三〇条は「退職金額は退職当時の基本給(日給者にあっては基本給の二五倍)に別表で定める勤続期間に応じた支給率を乗じて得た金額とする。」と定め、また同三四条一項は「勤続期間は、入社から退社までの期間とする。」と定めており、これによれば、従業員の入社した時期がその退職金額の算定基準となる勤続年数の起算日となる。また、原告らが被告に入社した時期について、原告苅田が昭和五〇年四月一日、同長井が昭和五二年四月一日であることは当事者間に争いがなく、同川口が昭和四七年一〇月一日と認められることは既に認定したとおりである。

2  被告は、当事者間における合意等が存するため、退職金額算定基準となる勤続年数の起算日は、右の原告らの入社日とは異なる旨を主張するので、被告主張にかかる事実の有無について、順次検討する。

(一) 被告が、昭和六〇年七月二五日、原告らを含む全従業員を解雇した事実について

右の事実は、本件全証拠によるも認められない。

なお、(人証略)の証言並びに原告ら及び被告代表者各本人尋問の結果を総合すれば、昭和六〇年九月、社長及び副社長が原告らを含む全従業員を被告の事務所に集め、社長から従業員に対し「この会社をこの後経営していくについては大変厳しい状況にある。数年間は昇給もないかもしれない。そういう中でやっていけるという人だけ残ってくれ。今までの経営の形では杉坂建築事務所は同じ道をたどるから、旧杉坂はすべて捨てる。」といった経営難を乗り越えるための心構えとしての精神論的な話をしたことが認められるが、この際、社長、副社長その他の者から、原告ら従業員に対し、解雇の意思表示がなされたことを認めるに足りる証拠はない(被告代表者本人尋問において本位田望は、昭和六〇年九月ころに社長及び副社長が従業員を集めて話をした際、副社長が従業員に対し、解雇の意思表示をした旨を述べているが、<人証略>は、自分は、解雇するという話をちゃんとはしていないとの旨の証言をしていることや、原告ら各本人尋問において、原告らは、いずれも被告から解雇の意思表示はされていない旨を述べていることからすれば、右の被告代表者本人尋問の結果を直ちに採用することはできない。)。

(二) 被告が、昭和六〇年七月二五日、原告らとの間で退職金額算定のための勤続年数の起算日を同日とする旨の合意をした事実について

本件証拠中、これを認めるに足りる証拠はない。

(三) 副社長が、平成五年四月三〇日、原告川口らと、昭和六〇年七月二五日以降の期間を勤続年数とすることを合意した事実について

本件証拠中、これを認めるに足りる証拠はない(<人証略>は、昭和六〇年七月二五日以降の期間を勤続年数とすることについて、原告川口が退職する際、社長から同原告に説明し、同原告は、これを承諾した旨を証言しているが、これのみでは右の合意の事実を認めるには足りない。)。

3  以上のとおり、この点に関する被告の主張はいずれも認められないので、原告らの退職金額の算定基準となる勤続年数の起算日は、各自の入社日となり、前記認定のとおりとなる。

四  争点4(給与規定三〇条にいう「基本給」の内容)について

1  給与規定五条及び一一条によれば、基本給は、職能給、年齢給及び勤続給がその構成要素であることが認められるので、同じく給与規定の中に規定された三〇条における「基本給」も、職能給、年齢給及び勤続給を含む趣旨であると理解できる。

2  そこで、まず、原告苅田の退職金額算定の基礎となる「基本給」の内容について検討する。

原告苅田の退職月である平成五年一二月分の給与明細書(<証拠略>)には、基本給一五万八〇〇〇円、職能給二〇万六〇〇〇円と記載されているところ、年齢給及び勤続給についての記載はないが、右に記載された基本給が、給与規定三〇条における「基本給」とは性質が異なると解する理由はないから、右に記載された基本給及び職能給の合計額が退職金額算定の基礎となる「基本給」に当たると理解される。そうすると、原告苅田の「基本給」は、三六万四〇〇〇円となる。

3  原告長井についても、原告苅田と同様に理解することができ、(証拠略)、原告長井敦本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告長井は退職月において、基本給として一四万二〇〇〇円、職能給として一九万七〇〇〇円の合計三三万九〇〇〇円が支払われていたことが認められるから、右金額が「基本給」となる。

4  原告川口につき検討する。

(一) 原告川口の退職時の報酬総額の七〇パーセント相当額が、同原告の「基本給」となると解すべき合理的理由は認められない。

(二) (証拠略)、原告川口及び被告代表者各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、取締役就任後、原告川口に対する報酬の支払いは年俸制となり、毎月その月割額が支払われていたこと、同原告の平成五年三月における報酬額は七三万二〇〇〇円であったこと、被告は、同原告を従業員に準じて考えた場合、右七三万二〇〇〇円の約四〇パーセントに当たる二九万円が「基本給」のうちの職能給以外の部分に相当すると理解していたことが認められ、被告の右の理解は、使用者による評価として一応合理的といえる。そして、給与規定一一条によれば、職能給は、従業員の技能、職務、職能、勤務成績等を総合的に評価し、各人毎に定められるものであるところ、原告苅田の職能給部分がその「基本給」の約五六パーセントを、また同長井の職能給部分がその「基本給」の約五八パーセントをそれぞれ占めている(<証拠略>)ことからすれば、原告川口についても、少なくても同原告の「基本給」の少なくとも五〇パーセントは、職能給にあたるものであることが推認される。そうすると、原告川口は、前記報酬月割額のうちの二九万円は職能給部分であると理解できる。したがって、同原告の「基本給」は、五八万円となると解するのが相当である。

五  なお、被告は、原告川口の退職金請求権が時効消滅した旨主張するが、退職金請求権は従業員の退職後始めて発生し、行使しうるものであるところ、同原告の被告従業員としての退職日が平成五年四月三〇日と認められることは前記認定のとおりであり、退職金請求権の消滅時効期間は五年である(労基法一一五条)から、同原告の退職金請求権が未だ消滅時効期間を経過していないことは明らかである。したがって、被告の右主張は理由がない。

六  以上を前提に原告らの退職金支払請求について検討する。

1  原告苅田について

(一) 原告苅田は、勤続年数が一八年九か月(但し、昭和五〇年四月一日入社、平成五年一二月三一日退職)、支給率が二〇・三七(但し、合意退職であるので、給与規定二九条六項、三二条により、別表B項を適用し、一九・四+(二〇・七-一九・四)×一二分の九となる。)、「基本給」三六万四〇〇〇円であるので、その退職金額は、次の計算式により七四一万四六八〇円となる。

(計算式) 三六万四〇〇〇円×二〇・三七=七四一万四六八〇円

(二) 原告苅田は、その退職金額が八三四万九二五〇円であることを前提に、すでに受領した一一八万五〇〇〇円を控除した七一六万四二五〇円の支払いを請求しているので、本件請求については、前記認定金額から一一八万五〇〇〇円を控除した残金である六二二万九六八〇円について認めることとする。そうすると、原告苅田の請求は、被告に対し、六二二万九六八〇円及びこれに対する履行期の後である平成六年四月二九日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員の支払いを求める限度において理由がある。

2  原告長井について

(一) 原告長井は、勤続年数が一六年九か月(但し、昭和五二年四月一日入社、平成五年一二月三一日退職)、支給率が一七・七七(但し、原告苅田と同様の理由で別表B項を適用し、一六・八+(一八・一-一六・八)×一二分の九となる。)、「基本給」三三万九〇〇〇円であるので、その退職金額は、次の計算式により六〇二万四〇三〇円となる。

(計算式) 三三万九〇〇〇円×一七・七七=六〇二万四〇三〇円

(二) 原告長井は、その退職金額が六九二万八三一二円であることを前提に、すでに受領した一〇六万五〇〇〇円を控除した五八六万三三一二円の支払いを請求しているので、本件請求については、前記認定金額から一〇六万五〇〇〇円を控除した残金である四九五万九〇三〇円について認めることとする。そうすると、原告長井の請求は、被告に対し、四九五万九〇三〇円及びこれに対する履行期の後である平成六年四月二九日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員の支払いを求める限度において理由がある。

3  原告川口について

(一) 原告川口は、勤続年数が二〇年七か月(但し、昭和四七年一〇月一日入社、平成五年四月三〇日退職)、支給率が二二・七五(但し、原告苅田と同様の理由で別表B項を適用し、二二・〇+(二三・三-二二・〇)×一二分の七となる。)、「基本給」五八万円であるので、その退職金額は、次の計算式により一三一九万五〇〇〇円となる。

(計算式) 五八万円×二二・七五=一三一九万五〇〇〇円

(二) 原告川口は、主位的請求において、その退職金額が一二九二万七三九〇円であるとの前提で、すでに受領した二四五万円を控除した一〇四七万七三九〇円の支払いを請求しているので、本件請求については、前記認定金額から二四五万円を控除し、さらにそのうち原告請求にかかる一〇四七万七三九〇円の範囲において認めることとする。そうすると、被告に対し、一〇四七万七三九〇円及びこれに対する履行期の後である平成六年一月一日から支払済みに至るまで年六分の割合による金員の支払いを求めた原告川口の請求は、理由がある。

七  原告苅田及び同長井の旅行積立金返還請求について

原告苅田及び同長井が、被告在職中、平成四年五月から平成五年一二月までの間、旅行積立金として、それぞれ合計六万円を社員旅行のために被告において積立てていたことは当事者間に争いがない。

また、平塚工業が、平成六年四月、原告苅田及び原告長井に対し、預金返戻として各八万七〇〇〇円を支払ったことについては当事者間に争いがなく、(人証略)の証言によれば、右各八万七〇〇〇円は、旅行積立金の返戻金を含む趣旨で支払われたものであることが認められる。

そうすると、原告苅田及び同長井の旅行積立金返還請求権は、いずれも弁済により消滅したことが認められるので、右各原告のこの点についての請求は、いずれも理由がない。

(裁判官 合田智子)

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